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研究科長室より

法の精神

2024/06/28

 「法の精神」と聞いてすぐに思い浮かぶのは、法学徒なら通常、モンテスキューでしょう。そしてモンテスキューと聞けば、反射的に三権分立という言葉が思い浮かぶのではないでしょうか。ほとんどの人が三権分立はモンテスキューが「法の精神」の中で提唱したと覚えているはずです。確かに『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」の箇所でモンテスキューは、立法権・執行権・裁判権の三種の権力に言及しています。しかしそれは1200頁を超える岩波文庫『法の精神(上・中・下)』の中の20頁足らずの記述にすぎません。どうやらこの書は三権分立の研究書ではないと思われます。

 ここで浩瀚な『法の精神』を詳らかにすることは断念せざるを得ませんが、その第1部が200頁ほど費やし、三政体について語っていることは指摘しておいてもよいでしょう。三政体とは、アリストテレス『政治学』に代表される国家体制の三分類で、単独支配の君主政、少数支配の貴族政、多数支配の民主政を指します。ホッブズ『市民論』やスピノザ『国家論』でも取り上げられたオーソドックスな分類です。モンテスキューはこのオーソドキシーを少しずらして、三政体を共和政、君主政、専制政の三種に分類し直します。その上で共和政を人民が権力主体の政体であるとし、君主政を貴族に支えられた君主の政体、専制政を貴族抜きの専制君主の政体と位置づけます。

 モンテスキューの関心は三政体の原理にあります。この原理こそが「法の精神」です。彼のいう原理は無機質な理論の所産ではなくて、人間の感情の産物である情念を意味します。三政体のいずれもが人間の情念によって動かされているというのであり、情念の駆動力がなければ、いずれの政体も機能しないというのです。ただし、三政体の原理は異なります。共和政の原理は「徳」、君主政の原理は「名誉」、専制政の原理は「恐怖」だといいます。各々の情念に突き動かされて、人は各自が属する政体に奉仕し、それを機能させます。

 人民が権力主体とされる共和政(とりわけ民主政)の場合、各人が平等な幸福を享受できるように統治されることが理想とされます。しかし制度が整っているだけでは不十分です。各人が「徳」の原理を身につけていることが必要条件です。共和政は有徳の人民から構成されないと、うまく機能しない仕組みだからです。人民がみな平等であろうとすれば、平等であることの意味=精神を理解し、そのことを「徳」として内面化していなければなりません。だから共和政においては、教育も「徳」の涵養を目的としなければならないとされます。

 これに対して君主政は「名誉」を原理とします。この政体は、名誉心をもった君主及び君主を支える貴族によって統治されるとき、うまく機能するといいます。「名誉」は統治者を特権的地位に格上げしますが、同時に他者には課せられない特別の義務を果たすべきことを統治者に自覚させます。君主政は統治者が「名誉」を矜恃とする限りにおいて成り立つのであり、統治者が名誉心を失い、特別の義務を果たさなくなれば、専制君主化せざるを得なくなり、人民に「恐怖」を植え付けて統治せざるを得なくなると考えるのです。

 「徳」「名誉」「恐怖」という原理の内容は異なるものの、三政体のすべてが、それを動かす人間の情念を必要とします。各々の政体に見合った情念が駆動しなければ、政体は機能しないと『法の精神』は説きます。「仏作って魂入れず」ということわざがありますが、国家体制にも魂となるものが必要なのでしょう。平等な人から成る社会をうまく機能させたいのであれば、各人が「徳」を備えるべく努力し、特権的地位にある人が社会を治めたいのなら、その人が「名誉」を矜恃としなければならない、ということかもしれません。法学徒も弁えておくべきことと思われます。

 ところで、なぜ「法の精神」が三権分立論になってしまったのでしょうか。その謎は上村剛『権力分立論の誕生』が解き明かしてくれます。モンテスキューの『法の精神』が、フランスから発信され、ブリテン帝国を経由して、アメリカ合衆国に到達し、その過程で様々な変容を経て、現在の通説が形成されていく様子が描かれています。ご参考まで。

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