2023/09/06
学生時代にドストエフスキーの短編小説を読んで、心を強く揺り動かされたという体験をした記憶があります。ドストエフスキーがロシアの文豪であり、世界文学史上の大作家であることを思えば、私がその筆の力に魅了されたのも、特段不思議なことではなかったのかもしれません。当時の私は他の学生同様、自分が何者であるかを知らず、身の振り方に確信も持てず、それでも何らかの答えが欲しくて模索しているところでした。そこに文豪の言葉がすうっと入り込んできたのだと思います。たまたまその時期の自分の精神状態と波長が合ったということもありました。
ドストエフスキーが長編小説を沢山書いているということはもちろん知っていました。でも、当時、それらを手にしようという気にはなりませんでした。短編小説に感動したからといって、さらに進んでロシア文学の巨匠の作品に浸る境地にまでは至らなかったのです。ただその後、ドストエフスキーが裁判を傍聴するなどして、刑事事件にインスピレーションを得ながら小説を書いているということを知りました。誰もが知っている『罪と罰』という小説のタイトルは、「犯罪と刑罰」の意味ですから、それが法律の世界と密接に関連していることは分かりますが、あの有名な大作『カラマーゾフの兄弟』も、刑事裁判が重要な舞台になっているということを知ったのは、十数年前の亀山郁夫の新訳が出た頃でした。
何がきっかけだったのか、もう覚えていないのですが、亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』を読んでみようという気になり、直ちに全巻購入しました。そして、一夏かけて一気に読破しました。途中で挫折する人もいると聞いていたこともあり、読み終えたときは、ちょっとした達成感もありました。正直に言えば、確かに、ロシア正教やローマ・カトリックのくだりにさしかかったとき、キリスト教の知識不足ゆえに、足踏みを覚悟した瞬間もありました。しかし、自分が研究対象にしている西洋法を理解するのに、宗教の話を避けて通ることはできないと思い、関連書を頼って乗り切りました。その結果、第4部第12編「誤審」のところまでたどり着くことができました。
法律学を学ぶ者にとって、この第4部第12編こそがクライマックスです。なぜならここでは、刑事法廷を背景にして、息をのむような証人尋問があり、それから検察側による感動的といってよいほどの大論告があって、その後、弁護側がそれを上回るといってよいくらいの説得力のある熱弁を振るう場面が展開されるからです。このパートだけで250頁にも及ぶ大弁論が繰り広げられるのですが、テンポがよいので、夢中になって読み進めることができました。文豪の手にかかると、法廷劇がかくも面白く描かれてしまうのか、と思わざるを得ないものでした。結末は意外なものでしたが、それはあえて伏せておきましょう。
この夏、久しぶりにドストエフスキーの長編小説に挑戦してみようと思い立ち、彼の代表作の一つである『悪霊』(もちろん亀山郁夫訳)を手に取りました。大作ではありましたが、分量的には『カラマーゾフの兄弟』の半分強ですし、一夏あれば読了できるだろうと見込んで読み始めたところ、これがまた大変面白くて、予想外に早く読み終えてしまいました。この小説は実際にあった内ゲバ殺人事件が執筆のきっかけだそうです。幾重にも張りめぐらされた伏線を回収しながら進むストーリー展開は、良質のサスペンス小説であるといってよいでしょう。読むのを迷っている人には、自信をもってお勧めいたします。