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研究科長室より

国家理性の理念について

2026/01/22

 昔、大学入学前、夏目漱石の小説『三四郎』を読んだ際、三四郎が大学図書館で手に取った書物のすべてに誰かから借り出された跡があったというエピソードを目にして、なぜかとても惹きつけられました。現在と違って、図書館の書籍には貸出印を押すシートが貼ってあり、それを確認すれば、借り出された形跡があるか否かがすぐに分かることから、大学入学後、自分も図書館に行き、誰も借りたことのない本を探したところ、長い探索の末、貸出印のない本を見つけることができました。三四郎が見つけられなかった誰にも借りられたことのない本を見つけたことに、少し興奮して、早速、それを借り出しました。

 それが、フリードリッヒ・マイネッケ著、菊盛英夫・生松敬三訳『近代史における国家理性の理念』(みすず書房)でした。「近代史」も「国家」も「理性」も「理念」も、単語だけ見れば、何となく内容をイメージできそうな気がしたのですが、これらの単語が組み合わされると、何を意味するのか、全く分かりませんでした。しかしドイツ語の原著ではないし、日本語を辿れば分かるだろうと勢い込んで読み始めましたが、全く分からないのです。冒頭に「国家理性とは国家行動の格率、国家の運動法則である」と定義らしき文はあったものの、何の意味かさっぱり分からない。我慢して数頁、目で文字を追いましたが、やがて根気がなくなり返却期限も到来したため、図書館に返さざるを得なくなりました。結局、自分の貸出記録により、まっさらな本に汚点が付いただけに終わりました。

 その挫折の日から30年あまりが経過したある日、某古本屋で当該書籍と再会しました。これはもう再チャレンジせよとの天の啓示であると思いました。すぐに同書を購入し、今度こそ挫折しないぞと誓って本の頁をめくり、必死で文字を追いました。相変わらず歯ごたえのある文章でしたが、大学入学時よりも(たぶん)知識は増えていたし、当時とは完読への意気込みも違うので、どうにかこうにか読了することができたという次第です。

 では、同書で何が論じられていたのかというと、それは、16世紀から19世紀にかけて、国家理性なるものがどのような理念として扱われてきたのかという歴史の話でした。マイネッケによれば、国家には個人や団体の道徳や宗教とは異なる国家ならではの行動原理があり、国家の維持発展のため、法や社会規範を破ることすら正当化されてきた歴史があるといいます。その原理が国家理性です。国家理性の歴史的展開を示すため、マイネッケはその理念を叙述し、あるいはこれを体現する人物を20人以上挙げて、これを丹念に跡づけます。具体的には、マキャベリやヘーゲルのような思想家・哲学者からリシュリューやフリードリッヒ大王のような政治家・国王まで、多種多様な人物に言及されています。

 この本は1924年に公刊されました。この時期はいわゆる戦間期に当たります。数年前に世界大戦が終わり、十数年後にまた世界大戦が始まる時期です。マイネッケは数年前に終わった第一次世界大戦を心底憎み、そうした事態が二度と起きないよう国家理性の魔力に注意を払い、それに取り込まれてしまわないようにと同書で警告しています。しかしマイネッケの憂慮もむなしく、十数年後に第二次世界大戦が始まったことはご存じの通りです。ただ、二度の大戦を教訓にして、人々が平和と真剣に向き合ったこともご承知でしょう。世界は国際法を承認し、多くの国が立憲国家になりました。法の支配が受け入れられたと多くの人が思いました。国家理性という言葉が用いられなくなったのもそのためでしょう。

 しかし、昨今の情勢は時代が逆戻りしているのではないかと疑いたくなるような事象に溢れています。もしマイネッケがここにいたら、ドンロー主義は国家理性に属するのか、と聞いてみたい気がします。そこに国家理性の理念といえるほどの中身があるのか、疑わしいといわれるかもしれませんが。

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