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研究科長室より

法律家のエートスについて

2022/07/04

 エルンスト・ヴォルフガング・ベッケンフェルデという人をご存じでしょうか。2019224日に、88歳で惜しまれつつ世を去ったドイツの公法学者です。彼は、フライブルク大学で公法、憲法史、法哲学を講じてきたほか、1983年から96年まで、ドイツ連邦憲法裁判所の判事を務め、法学と法曹実務の双方において、大きな業績を残しています。来日経験もあり、著書の邦訳もあります(初宿正典編訳『現代国家と憲法・自由・民主制』)。その彼が2010年に公刊した著書に『法律家のエートスについて(Vom Ethos der Juristen)』という40頁ほどの小作品があります。とても味わい深い本です。今回はこの本を参照しながら、法律家のエートスについて少し語りたいと思います。

 まず、エートスとは何でしょうか。広辞苑には「ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気」とあります。ベッケンフェルデによれば、エートスとはギリシャ語に由来し、アレテー(「徳」のこと。「徳」については、アリストテレス『ニコマコス倫理学』参照)と関連し、倫理(ドイツ語だとEthik、英語ではethics)と同根であるとされます。しかし、エートスは規範的な倫理・道徳と同じではなく、それとは一応区別されています。すなわち、エートスとは規範的な意味合いも含んだ社会習慣をいうのです。それゆえ法律家のエートスとは、法律家共同体の中で共有されている倫理性を帯びた思考・行為習慣であるといってよいでしょう。

 法律家のエートスを具体的に説明するため、ベッケンフェルデは、古代ローマの法律家、大陸法系の法律家、英米のコモンロー系の法律家の3つのエートスを取り上げます。このうち後二者の思考・行為習慣については、聞いたことがあるかもしれません。すなわち、大陸法系の法律家は、法体系を重視し、法律の解釈適用が自己の任務だと自覚するのに対して、コモンロー系の法律家は、判例法を志向し、先例に照らした個別事案の解決を目指すという基本態度です。もちろん、これはいずれも大まかな特徴に過ぎず、実際には大陸法系の法律家も判例は意識しているし、コモンロー系の法律家も制定法に従っています。その意味で、先に挙げた特徴の違いは、本質的なものではないというべきかもしれません。

  むしろ法律家に共通して見られる思考・行為習慣として、重要と思われるのは、法律家が形式や手続を尊び、一定の枠の中で思考・行為しようとしつつ、同時にその枠内で具体的に妥当な正義観念を盛り込もうとする姿勢があるとされることです。法律家が、法律や判例に依拠するのは、自らの私的な見解や偏見から距離を置き、個別利益から一旦離れたところで思考・行為するためであって、自己を機械化し、アルゴリズムに従った決定を下すためではありません。もし本当に、法律家の理想が機械的判断にあるのだとすれば、法律家の仕事はいずれAIに取って代えられるに違いありません。法律家は、法律や判例を見据えつつ、自分たちの置かれた現在の社会を理解し、かつ、未来の社会を展望して、何が妥当な判断なのか、思考をめぐらせます。現在の理解や未来の展望は、法律家の専売特許ではありませんが、これと法律・判例を突き合わせ、視線を往復させながら省察を加えていくところに、法律家のエートスがあるといえます。

 変化する社会に適切に対応するため、法律家は、原理原則を通じ、時代遅れの法律・判例の解釈適用に修正を加えます。ただ、それが法律家個人の独りよがりの正義感の現れに過ぎないということになると、法律家は善意で社会のあり方を歪めることになってしまいます。そうならないような法文化の構築が、法律家共同体の課題ということになるでしょう。ベッケンフェルデが法曹教育の重要性を説くのも、そのためであると思われます。

  いうまでもなく、ロースクールも法曹教育の一翼を担っています。ここが法律家のエートスを育む場所として適切に機能しているかについては、私たちも日々反省しなければなりません。一昔前と比較すると、独りよがりの正義感を振りかざす学生は見なくなったように感じるのですが、逆に、自らを「法律機械」に仕立て上げたがる人は増加の兆しがあるように見受けられます。そのような人はAI時代を生き抜くことに苦労するかもしれません

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